昔、アメリカでこんな話があった。
ある母親が、中学生の娘が、夜によく外出するのに気付き、どこに行っているのか尋ねると、娘が言うには、数学の宿題が出来なくて困っていた時、近所に数学の偉い先生がいると聞いたことがあるのを思い出し、ためしに、その先生の家に行って、数学の宿題を手伝ってもらえないかと頼んでみたら、喜んで教えてくれたのだが、その教え方が学校の先生よりずっと分り易いし、いつでも来ていいと言うので、宿題が出来ない時はその先生のところに行っているのだという。
そして、その先生の名を聞いて、母親は卒倒しかけた。当時、アメリカに亡命していた、アルベルト・アインシュタイン博士であった。
すぐに母親はアインシュタイン博士のところに謝罪に行ったが、アインシュタインは「いえ、私の方が多く教わっていたのです」と答えたという。

勉強は無報酬で教えるのが一番良い : ITスペシャリストが語る芸術 (via soulboy)

2011-06-11

(via quote-over100notes-jp)

(via johnnychallenge)

大人に必要とされてるのは無邪気さなんかじゃない。
清濁を飲み込んだうえでの覚悟みたいなもんじゃないのか。
てゆうか大人っていつの時代もそういう存在じゃなかったっけ?


おっさんが無邪気で若者が賢い時代に - G.A.W.
(via tad-nan-alk)

(via johnnychallenge)

 
・ぼく自身が若くて、フリーで仕事をしていたときに、
 文章を書くことを仕事にしている先輩が、
 なにげない感じで、こんなことを教えてくれました。
 
 「年をとると、いっしょに仕事をしてきた編集者が、
  みんな偉くなって、重い役職に着いちゃってね。
  それは、とってもいいことのようでもあるんだけど、
  もういっしょに仕事するってことにはならないんだ。
  実際の仕事、若い編集者がやることにになるだろ。
  そうするとさ、若い編集者からしたら、
  オレみたいな存在は、めんどくさいんだよ。
  わいわいと、気楽に仕事をしていくのって、
  同世代とか、ちょっと上か下くらいの作家でさ、
  そういうことになっちゃうわけよ。
  オレのほうが、いい仕事するぞ、とか言ったってね、
  だんだんと、大事そうな仕事ばっかりになるんだよ。
  重い大事そうな仕事だけが、くるんだ。
  そして、やがては、なにもなるなるんだろうな」

 後輩であるぼくは、そのときに、
 「まさか‥‥力量がちがうでしょうし」と、
 あんまり考えもしないで言ったと思います。
 でも、そのときのことばを、よく憶えているのだから、
 きっと強い印象があったんでしょうね。
 
 力のある人が、さらに力をつけていくことと、
 世代が交代していくということとは、
 ほんとうは矛盾しないようにも思いたいのですが、
 実際には、静かに仕事の現場は世代交代していきます。
 そういう意味では、長い期間、ずっと
 一線で活躍しているごくひと握りの人たちは、
 あらゆる意味で、ものすごい人たちです。
 「ほぼ日」に関わっている方でいえば、
 和田誠さんとか、大橋歩さんとか、横尾忠則さんとか、
 なにがすごいんだろうと、よくよく考えてみると、
 「よく聞きたがる」んですよね。
 「なに、それ?」って、いつも言ってるような気がする。
 なにかとよく聞いて、「へーえ」とおもしろがって、
 なるほどと思ったら、血や肉にしているんでしょう。
 相手が誰でも、「よく聞こうとする」‥‥これ、
 若い人でも、できない人はできないんですよねぇ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
ぼくは厳重に防寒して、気仙沼の仲間に会いに行きまーす。
ほぼ日刊イトイ新聞 - 目次
 
・ぼくの知ってる、いままでの日本の教育制度って、
 どうしても、大学に入るまでのことが
 「受験勉強」として重要視されていたように思います。
 そのことの弊害もよく語られていますし、
 おそらく、これはこれでよかったこともあるのでしょう。
 いいことばかりもないように、
 わるいことばかりということだって、そうそうはない。
 
 ただ、このところ、
 「大学に入れたからって、安心できないよ」
 という、昔から言われていたことが、
 ほんとうになったんじゃないかなぁ。
 「いい大学の卒業証書」というものが、
 かつては(たぶんですが)土地の権利書のように、
 価値と意味を持っていたんでしょう‥‥かね。
 「いちおう卒業証書だけはもらっておかないと」、
 というくらいの意味は、あったのだと思います。
 
 でも、いまは「入学してからどうしていたのか」とか、
 「学校は学校として、自身はどう生きていくのか」とか、
 入学しただけでは得られないようなことを、
 社会から、企業から、周囲の人々から、
 問われるようになっているのではないでしょうか。
 (そうなると、ほんとは大学に入ったかどうかも、
  あまり関係なくなっちゃうような気もするのですが‥‥)
  
 そうなってくると、
 文字や、数字や、記号や、画像や、映像を、
 たくさん見ている時間も無視できないかもしれませんが、
 「生身の人間」や「直接の経験」を、
 どれほど呼吸してきたかが、とても大事になってきます。
 若いじぶんの「思うにまかせない」ものごとや人。
 整理して語り切れない「ほんとにあったこと」。
 声でしか伝えてもらえないようなことば。
 記録されないけれど、記憶される景色。
 そんなふうな、摂取するのに手間がかかるような養分が、
 その人その人の生き方をつくっていくでしょう。
 
 ‥‥そういうこと、かえっていいことのような気がする。
 免許や資格じゃなく、見えないものが磨かれそうだもの。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「イシュー」ってことばが、社内の流行語のように‥‥。
ほぼ日刊イトイ新聞 - 目次
昨日、ほんとに「ふと‥‥」思いついて、
 <じぶんで選べないことは、その人のせいじゃないです>
 と書き記しました。
 これは、吉本隆明さんがなにかのときに、
 呼吸でもするように言ったことばです。
 生まれた時代や生まれた国、どちらもじぶんで選べない。
 肌の色、からだの大きさやかたち、
 そして兄弟やら両親も選べません。

 親しい人どうしが、たがいに、
 からかいあったりすることはあるかもしれませんが、
 じぶんでどうしようもないことで、
 責められたり不利益を受けたりするのは、
 あってはいけないことだと思います。
 
・もうちょっとだけ広げると、
 いかにも「じぶんで選べる」ように見えて、
 じつは「じぶんで選べない」こともたくさんあります。
 ものしりであることとか、教養があること、
 たくさん本を読んでいることなどを、自慢する人や、
 ものを知らない人を簡単にバカにしようとする人が、
 なんとなく気持ちわるいのは、
 教養を得るための時間や環境があったことを、
 勘定に入れてないからだと思います。
 ほんとに教養のあるかっこいい人は、
 ものを知らない人をバカにしたりしません。
 いや、あらゆる人から学ぼうとします。
 
・ま、こういうふうなことを言うと、
 どこかに「じぶんはどうなんだ」ということになって、
 さんざんボロが出るのは目に見えているのですが、
 ものを知らないとか、ものを言わないとか、
 そういう人が否定されるような考え方は、
 ほんとうのよさを持てないんだよなぁ、と、
 このごろ、つくづく思うのです。
 中世に生きていた親鸞さんが、
 「南無阿弥陀仏と言うだけで、誰でも」と言ったのは、
 修業を積んだとか、熱心に勉強したとかじゃない人を、
 まるごとみんな肯定したという意味で、
 かっこいいなぁと思えるんですよねー。
ほぼ日刊イトイ新聞 - 目次
ロックンロールバンドが目指す場所はね、無いんだよ。中学生でもいい。小学生でもいい。高校生でもいい。例えばホウキでもいいんだ。ギター持ってなくてさ。ロックンロールに憧れて教室の隅っこでワァーってなる。すっげぇ楽しいんだ。そこがゴールです。そこにずっといるんだよ。そっからどこにも行かないよ。それが東京ドームになろうが教室の隅っこであろうがそんなの関係ないんだ。ロックンロールバンドは最初から組んだ時点でゴールしてんだ。目的達成だよ。

甲本ヒロト - Wikipedia

(via ioxxx)

2010-08-18

(via syumari) (via fujihajime) (via hepton-rk) (via himmelkei) (via korobix) (via kwwwsk)

(via mrngiii) (via nemoi)

(via nemoi)

(via nemoi)

Accent theme by Handsome Code

twitter.com/meatball67

view archive